範宙遊泳『#禁じられたた遊び』

を先日観てきたのだけれど、これから書くことは、舞台上で起こっていた出来事によって想起された自分自身の経験や内面のことです。

作品自体の演出がどうとか役者がどうとか言う劇評ではなく、本当に個人的な話。

これまでの他の観劇作品についてのブログも別に「劇評」や「感想」という形になっていなかったものは多いけど、いつにも増して個人的な話だという気がします。

「こんなレベルじゃ劇評なんて言えないな〜」みたいな謙遜や卑下の意味ではなく、本当に全然内容に触れてないです。

だからこそ最初に「劇としてどうだったか」について一言だけ触れておきますが、今年観た演劇作品で一番でした。価値と意味と今やる必然性で。

 

 

私は「ハーフ?」と聞かれることが多い。

なんて切り出したけど、別に普段は自分から「ハーフっぽいでしょ」と主張したりしないし、ハーフメイクとか呼ばれるお化粧をしているわけではない。

 

(ハーフじゃなくてダブルとかミックスって呼び方のほうが良いみたいな話は知っているけれど、そもそも、この文章内で私自身がどの単語をチョイスするかという問題ではなく、私自身が他者から向けられる言葉が「ハーフ」なのでそのまま表記する)

 

これは大人になってからの話ではなく、赤ちゃんの頃から言われていたらしい。まあさすがにそれは覚えていないけど。

ただ、記憶にある限りでも、保育園の頃から23歳の現在に至るまで毎年、初めて会う誰かしらに「海外の血が入ってそう」という意味のことを言われてきた。毎年言われてきたっていうのは誇張ではなく事実で、そんな保育園の時のことまで覚えてんのかよって思われそうだけど、親から聞いた話ではなく自分の記憶として、覚えている。引っ越しや転校を何度かしてる関係で「これはこの場所での記憶だから何歳の時だな…」っていうのがわかりやすいのと、幼少期のほうが今より薄い茶髪だったから言われる頻度が高かったのもある。(ちなみに、染めたりしなくても、成長とともに地毛の髪色は濃く変化していった。)

 

そんなこんなで、新しい環境に行くたびその言葉は言われてきた。特に、写真より実物のほうがそう見えるらしい。

「(北海道出身だから=ロシアが近いから)ロシア系かな」とか、「(肌が白いから)北欧系っぽい」「(フランス人形のイメージで)フランスっぽい」の三ヶ国が一番言われるけど、とりあえずアジア圏ではないらしい。

 

 

(しつこいようだけど、そう言われることが多いというだけであって自分ではハーフっぽいと思っていないので、実際に私と会ったことのある人の中にも「ハーフっぽいって思ったことなかった」って人はいるかもしれないけど、それはそれで、まあそうですよねとしか言えない)

 

 

実際どうなのかといえば、海外の血は入ってないはず。辿れる限りは。といっても曽祖父の代より前のことは知らないけれど、そうなってくると、仮に混じってたところでだいぶ昔だ。

母方の祖母の妹が私以上に「外国人っぽい」と言われてきたらしいので、もし可能性があるとしたら母方の祖母方の遺伝なんだな、くらい。

ちなみにわたしは三兄弟の真ん中なのだけれど、兄と弟は父方の遺伝が強い顔立ちなのか、性別が違うからなのか、「ハーフ?」とか聞かれたことは全く無いらしい。

 

正直言って、瞳が青や緑なわけでもないし、彫りが深いわけでもない。むしろ横顔は平たい。ただ単に、瞳がほかの人より茶色いのと、肌が白いことくらい。たしかに、メラニン色素は少ない。

北海道を出た今になって「雪国出身だから色白なんだね!」とも言われるようになったけど、北海道に住んでた時から学年で一番白かったから、日照時間がどこまで関係あるのかは怪しい。

 

 

で、そう、どれだけハーフっぽいと言われるかみたいなことを書き連ねてきたけれど、ここからが本題。

そんな風に言われるからといってなんだというのか。

 

 

たぶん、私が「ハーフ?」と聞かれた時に抱く感情は、実際に海外の血を引く人がルーツを問われた時に抱く感情ともまた違ったものだと思うし、被差別的な経験や自身のアイデンティティに対する葛藤の量は比べ物にならないかもしれない。

 

だとしても、それでも、この立場も微妙に息苦しいんだよな、っていう、そういう話を、書こうと思う。

 

子ども時代は特に「異物」として認識されているような感覚があった。

 

保育園の頃は「日本人じゃないみたい」ってストレートに言われた。子供たちは国名といえばアメリカしか知らなくて、無邪気に「アメリカ人なの?」って聞かれていた。(本題からずれるけど、外国=アメリカって思ってたってこと、今書いてびっくりした)

アメリカ人とひとくちに言ったところで、本来は人種や民族でくくれないのだけれど、当然ながら保育園児にわかるはずもない。

「なんか自分たちとちがうな」と思ったからといってコミュニティから排除するような年齢でもないので、仲間外れにされるようなことは無かったし友達もいたけど、みんなで仲良く遊んでたけど、なんか違うね、っていうのを一番ストレートに向けられていたのはこの頃だったと思う。

 

兄弟の中で1人だけ顔が違うね、と言われるのも、今でこそ「たしかに似てないな〜」くらいの感覚だけど、昔は、じゃあどこの子だっていうんだ!と思ってしまって、自分だけ違う家の子だと言われているみたいで寂しかった。

 

私にハーフかと訊ねてくる人の大半は、悪意を向けているわけでもなければ差別している自覚も無いし、排除する意図は無さそうではある。

 

けど、小3のとき、転校先の男の子に「日本人じゃないなら日本語しゃべるなよ」って言われたのは未だに覚えてる。し、許してない。

お互い9歳だったから許されるとかそういうことじゃないと思っている。その発言をしたのはそいつ1人だけど、皆からそうやっていじめられたりはしてないけど、そういう発言を子供がしてしまうことが、ナチュラルにそういう考えに至ってしまうような環境っていうのがまじでしんどかった。転校生だったから余計にかもしれないけど、クラス替えも無いような田舎の村で自分たちと違うものに対して向けられる目、っていうのは、都会のマンモス校のそれとはまた違う。

 

ハーフっぽいってだけでそんな風に言われなきゃいけないなら本当のハーフの人はどんな言葉を向けられてきたんだろう、どんな視線に晒されてきたんだろうって気が遠くなる一方で、本当にハーフなら開き直れるのに!って思ってしまって、少し羨ましかった。

勿論、ハーフの人が「どっちの国にも属せていない気分だ」と感じている場合もあるのだろうけど、日本以外に「ここ」っていう国があるなら、そこを心の拠り所にしたり愛着や誇りを持てる可能性もあるのに、と思っていた。

「ハーフっぽいって言われるけど実際は違う人」は、コミュニティから排除されるだけされたところで、日本に馴染めなかったところで、実際のところ「もうひとつの場所」があるわけではないから。

そもそも「日本人であるか」「そうでないか」で境界線を引かれなければならない理由もわからなかったけど、実際のところは日本しか知らないから「純日本人だよ」って答えるしかなくて、「ぽくないね」と言われるたび、日本には完全に属していないような宙ぶらりんな気持ちになった(『純日本人』ってなんだろうって、純粋に日本人であるってどういう事なのかも曖昧なまま)。

 

今でこそ、「日本」だって本当は単一民族国家なんかじゃないし人種や民族を問うこと自体ナンセンスだと思うようになったけど、子どもにそんな反論ができるわけなかった。

 

高校生くらい〜大人になってからは「ハーフっぽいっていうのは褒め言葉だよ」って言われるようになったし、いつからか『ハーフ風メイク』『色素薄い系メイク』とかが流行りだして、たまたま流行の顔に該当した私は「ハーフみたいで良いなあ」とか、「可愛い顔ってことだよ、喜びなよ」みたいに言われるようになった。

だから、このブログの前半で書いたような「いかにハーフっぽいと言われるか」を語ろうものなら自慢と取られかねないってことも自覚している。「結局自分のことハーフっぽくて可愛いって言いたいんじゃないの?」って捉える女子が絶対いることも、ぜんぶ、肌で、感じてきた。

だけど、ハーフっぽい=可愛い=自慢っていうのもわりと意味わかんないなあとずっと思ってる。

 

向けられているのが悪意や排除ではなく好意であったとしても、褒め言葉であったとしても、その裏側にある白人コンプレックスなんなんだよと思う。なんで日本人離れしていることが褒め言葉になるのか。

 

もしほんとに私の顔を褒めてくれているならば、別の言葉で可愛いって言ってくれればいいのに、そこでアジアがどうとかヨーロッパがどうとか関係ないのに。

 

「まあでも、ハーフっぽいって言われて嬉しいかどうかはどこの国っぽいかにもよるよね。アジア系だと微妙だけど、ヨーロッパ系なんだから良いじゃん」みたいな事をつい最近言われたばかりだ。まじかよって感じだけどまじで。

でもそんなの全然嬉しくないし、ていうか私は日本人だしアジア人だし、もうこれ明らかに白人コンプレックスじゃんって思ったけど、相手が年上だったからって「そうですか?」としか言えなくて直接怒れなかった自分もまじでアホだしやんなっちゃうな〜〜って感じ。

 

これまで好意からそう言ってきてくれた人を攻撃したいわけでも、「ハーフっぽいって言ってごめんね」って謝ってほしいわけでもない。

ただ、言われるたびに、どこに向ければいいのかわからないもやもやがあった。

本当にハーフである人たちからしたら「実際人種差別を受けてきたわけじゃないのに」って思われるようなちっぽけなことなんじゃないかって自分でも思ってしまうけれど、そうやって、自分が感じてきたことや言われてきたことを無かったことにしたところで、やっぱりもやもやしちゃうわけで、それなら誰かと話した方がいいと思った。

書いた方がいいと思った。

 

この話にこれ以上のオチはなくて、ただひたすらに、乱雑に言葉を吐き出しただけなのだけれど、『#禁じられたた遊び』 は、おそらくこういった経験を話すことも許される作品だという気がしたので、ここに、これを記す。

 

 

今回のこの文章としてはひとまず終わり、だけど、これからも考え続けることになりそう。

荼毘

先日ひとりぼっちのみんな『キャンプ荼毘』を観ました。

 

今から書くのは、感想というよりざっくりとした覚え書きに近いかもです。観た人以外にはあらすじとか伝わらない気がするけど、話の筋とか設定を語るより熱量で語る舞台だと思ったので、まあいいかなと。

 

『キャンプ荼毘』は《だチーム》と《びチーム》のダブルキャストで上演されていて、先にびを観たんですが、これは両方観なきゃあかんやつだなって思って、すぐに、だを予約しました。

 

こんなこと言われても全く嬉しくないかもしれないけど、作・演出のいかちゃんこと伊藤香菜ちゃんの中身はなんだかんだ自分と似てるんだよなって思った。

 

いや、嘘、ほんとは別にそんな似てない。

 

でもそうやって「自分を見てるみたいだ…」って感じさせるくらい、抱えてきた個人的な感情とか感覚を刺激するのがはちゃめちゃに上手くて、凄いです。

 

「社会を切り取る」みたいな主語の広い話ではないし、むしろものすごく個人的なことを切り取って描いているんだけど、個人にフォーカスすればするほど、誰もが普遍的に感じること、とかも浮かび上がってきてより多くの人に刺さる、みたいな。

 

もはや学生ではなくなった自分(23)は、この作品における「いま=成長後」の年齢(25)近いはずなのに、この作品で描かれている「過去=学生時代」(高校生)みたいな感情にも未だにとらわれてしまうし、でも、成長後の葛藤っていうか年齢に対する焦りみたいなのもわかってしまうし、なんかもうどの年齢の自分も結局どうしようもないな!ってなったり。

 

こじらせて、ねじれて、成長してほどけた部分もあれば余計にねじれてしまった部分もあるのかもしれなくて、これを客観的に微笑ましく見れる日を、今はまだ想像できない。

 

でも見終えたときに残る感情は絶望ではなくて希望で、その不器用さが愛おしくなるような、そんな作品でした。

 

 

チームによる違いとしては

 

びチームの方が燃えてる(燃やしてる)イメージで、毒と痛さを感じました。観てて痛々しいという意味ではなく、尖っててぐさぐさ刺さるものがあるって意味で。傷口えぐってくるしカサブタは剥がしてくるし超ドロドロしてて超しんどかったけど、燃やし尽くしたら超かっこよかったし煌めいてた。

私の中で、いかちゃんの分身感を感じたのもこちらの役者さんたちでした。ひとりぼっちのみんなならではの感じ。

 

だチームの方はお通夜感というか弔い感が強くて、痛みよりは哀しみ。さよならって感じ。だけど爆笑したのもこっちかもしれない。振り幅が大きい。脱皮感もある。いかちゃんの分身・自伝的作品というよりは他の誰かの話って感じでした。ひとりぼっちのみんなぽくないという意味ではなく、もちろんそのカラーはあるんだけど、役者さんに手渡されて再構築された感というか。アニメ化できそう。

 

全然違う印象だったので本当に両方観てよかったです。

 

あとテーマ曲は最高にかっこよくて、踊ってるみんなの表情やエネルギーにあてられて、まだストーリーわかんないのにオープニングで泣けた…。

 

ここからは純粋な観客としての感想では無くなってしまうけど、いち観客として自分自身の学生時代を思い出すほかに、私自身も7月に別の作品(『分別盛りたいっ!』)でひとりぼっちのみんなに出演させてもらっていたので、その時のことを思い出したりもしました。

 

当時共演した方々が今回の『キャンプ荼毘』でも両チームにいたので、全然違う表情を見せてくれた金田一さんとかレオナさんにどきっとしたり、軸はブレないのに表現のパターンは多彩なきわこちゃんとかきょんちゃんを尊敬したり。出演者以外にも、制作や音響、照明、お疲れさまでした。

 

ちなみに7月にひとりぼっちのみんな『分別盛りたいっ!』に参加してた当時の自分に対しても「こじらせててうぜー!」って思う部分は結構あるのだけど、

(当時作品を観に来てくださった方がこのブログを読んだとき誤解を招かないように補足すると、勿論作品に関われてすごく良かったし、ひとりぼっちのみんなに出演したことは全く後悔してないです。大切な時間でした。他のメンバーに対して攻撃的な気待ちを抱いているとかも全くないしむしろ好きなんですけど、役者としての自分自身の在り方とコミュ障発揮ぶりに色々後悔している)

今回の作品を観て、いろんな後悔を燃やした姿を見て、私も自分の後悔を燃やせたというか、生きよう、って思えたので、ありがとうって気持ちになりました。開き直りではなく。自己満足ではあるかもしれないけど。

 

 

まあそれはどうでもいいんだ。話がそれました。

 

あらためて、

 

ひとりぼっちのみんな、の皆が、同世代として面白い作品をつくる姿は刺激的だし、かっこいいです。

生きてるって実感を、熱量を、煌めきを強く感じさせる、映像ではなくその空間でしか感じられないものがある、作品が演劇である必然性を強く感じる劇団です。

 

明日が楽日ということで、このブログを読んでくれた人に『キャンプ荼毘』を予約してもらう…とかは難しいかもしれないけど、今後もいろんな作品を作り続けると思うので、いろんな人にひとりぼっちのみんながつくる瞬間を見届けてほしいなと思います。

SPAC『授業』

これは煽りでは無く真面目な話なのだけど、この作品を面白いと思った人たちは、どこの場面の何を見てそう判断したのか知りたい。

 

“鬼才”が仕掛ける衝撃の連続 SPAC『授業』公演&アーティストトーク レポート | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス

のように好意的に捉えている記事や、褒めてるツイートも読んだし、面白いと思った人の感覚を否定するつもりはない。

何かを感じたり受け取ったなら、それはそれで良いと思う。

 

ただ、あくまでいち観客としての感想だけど、わたしは正直「西悟志という演出家の描く『授業』」は面白いと思えなかったから、どういう点で他の人が面白いと感じたのかわからない。

 

演出家の西さんは東大卒で、利賀の演出家コンクールでも優秀演出家賞を受賞しており、2019年に新国立劇場で上演される演目の演出家としても選出されているらしい。

肩書きや活動実績からして、評価されてきた人、なのは間違いないし、才能を見出したからこそSPAC芸術監督の宮城さんも西さんを「鬼才」と評して今回の演出家に選び、ゴーサインを出したんだろうし、周囲からも、過去の作品は面白かったと聞いた。

 

かたや私は、演劇の経験年数もまだ短い、受賞歴も無いような23歳の小娘だけど、でも(舞台上で男⇄女、あるいは年長者⇄若者といった構造が描かれていたからこそ)ここで肩書きに負けて「これまで評価されてきた人の作品を面白いと思えないのは自分が間違ってるのかな」と感覚に蓋をするのは嫌だなと思ったので、書く。過去作品はたしかに面白かったのかもしれないけど、少なくとも今回の作品は、私にとって面白くなかった。

 

(本題から少しずれるけど、

私自身「面白くない」と言い切るまでに躊躇いがあった事を思うと、これまでほぼ演劇に触れてこなかった学生たちなんて、私以上に、自分の感覚を信じることが難しそうだなと思う。

中高生鑑賞事業で『授業』を観て「演劇ってこういうものなんだ」とか「自分にはよくわからないけど周囲の大人たちに評価されてるみたいだからすごいのかもしれない」とか思ってしまう子がいそうで怖い。

学校で書かされる感想文って、劇評を求められているというより、面白かったです、的な、良かったところだけを書くことが多い気がするので、なんだかなあと思う。これは私の通ってた学校がそうだっただけで、批判的な事を書いても大丈夫な学校もあるかもしれないけど。)

 

面白くないものを面白かったって持て囃すのは不健全で誰の為にもならないし、面白くないですっていうことをちゃんと発信していくことは大事だと思う。営業妨害したい訳でも風評被害に遭わせたいわけでもなく、これからの演劇の未来のために。

 

とはいえ、今回の公演を通して

 

「SPACは面白くない」

「演劇は面白くない」

「イヨネスコって面白くない」

「『授業』って面白くない」

 

と捉えられてしまうのもつらい。

 

だって、SPACの俳優とマリー役のスタッフさんは上手かった。イヨネスコの戯曲は面白かった。

 

 

問題はあくまで演出の西悟志さんがやろうとしている事というか、今回この上演をするにあたって戯曲をどう扱うか、という面。姿勢というか視点というか。

 

もし仮にSPAC関係者の人たちが、劇団として、劇場としてこの作品を本気で素晴らしいと思ってるなら今後上演される演目の選定に不安を覚えるくらいには、チケット代が勿体無いなと思った。

(意に沿わないものだとしても観客には不平不満や内情を漏らさずやり切る、っていうのもプロの仕事のうちかもしれないけど、本音の部分で、全員がこれを肯定しているとは信じたくない)

 

 

不条理劇だから脈絡が無くてよくわからなかった、とか、台詞の意味がわからなくてつまらなかったとかではない。

 

 

むしろ、本来の戯曲には無いストーリー性が付与されてしまった事で、シュールさ、滑稽さ、空虚さみたいなものが失われていて笑えなかった。西さんのオリジナル部分が蛇足でしかないというか、普通に不条理劇として失敗だと思う。たしかにラストに至るまでの台詞は非論理的なものだったにせよ、それは、元の戯曲がそうだからで、その状況に対して新しい展開や主張を付け足した時点でドラマになっちゃってるというか。そしてそのドラマの存在が、私にとって面白くない原因だと思う。

最初に貼ったSPICEの記事の中でも「不条理で終わらせない」って書かれているけれど、好意的に評してるレポートにおいてもこの上演は不条理で終わっていないと判断されているわけで。

誰もしてこなかったことを世界に類を見ない新しい試みだとか評価するのは簡単だけど、そうする必要が無いから誰もやってこなかったんじゃないの、と思ってしまうくらい、イヨネスコの『授業』にはいらない要素だったと思う。

記事の中ではそれが「勇気ある一歩」として評価されているけれど、私としては、それは、本当に「女生徒」のポジションに重ねられているであろう人々に寄り添えているならば、の話だと思う。

 

そもそも最初から『授業』を「不条理で終わらせない」という目的が先にあったとして、戯曲はあくまでその結論に至るための道具に過ぎないとするなら、「イヨネスコに忠実に」とか言うなよって思うし、

 

さっきも書いたように「女生徒」に象徴される女性たち(およびそういった立場におかれる人々。性別問わず)に寄り添えているならまだ評価できる試みだったにせよ、演出家本人いわく「女性たちに向けて作った」らしいそのシーンが浅いというか結局女性をナメてるな〜っていうのが透けてるのが一番どうかと思う。

あの最後の反撃(あるいは最後の椅子のシーン)で怒りや悲しみを表現したつもりかもしれないけど、なんにも悪気や自覚は無いのかもしれないけど、でも、だからだめなんだと思う。仮に「女性たちに向けて」っていうのがあのラストシーンの事じゃないとするなら、それはそれで、どこの事を言ってるのか疑問だし。

 

※ イヨネスコ「授業」を“女性たち”向けに、西悟志「世界的にも例を見ない授業に」 - ステージナタリー

 

 

Twitterの感想ツイートで、抑圧からの解放、とか、爽快感、救われるって言葉を使ってる人もいたけど、抑圧された事が無い人かあるいはポジティブな人なのかなと思う。あれが爽やかなハッピーエンドとはどうしても思えない。

(その感想を抱いた人を馬鹿にしてるとかではなく、幸せな/恵まれた人生を送ってきた人が、当事者としてではなく第三者の視点から他人事として見るとそう見えるのかもしれない、という話。)

 

西さんと共同演出の菊川さんにも(振付以外の部分でどの程度まで演出に関わったのかはわからないけれど)本当にこの演出で解放されますか?って聞きたい。責めてるんじゃなくて、喧嘩売ってるんじゃなくて、聞きたい。

 

私もフェミニズムを専門的に学んだ訳では無いけど、少なくとも絶対に「やられたらやり返す」ことでは無いし、そもそも、殺す⇆殺される、っていう「明らかに犯罪である」ことに対しての抵抗を描くことで女性の権利を表現してるつもりなら甘い。

まあ別に表面上の「殺す」という行為が重要なのではなくて、殺すに至るまでの教授の挙動を通して権力構造とかレイプだとか痴漢も表現していたのかもしれないけど、そして、それに至ってしまうような、社会の中にある女性蔑視を描きたかったのかもしれないけど。

殺すっていうのは元の戯曲にもある要素だから、「明らかに犯罪である行為」とか関係無く、必要なシーンだったにせよ。

そこに対して問題提起しつつオリジナルの回答を示すという選択をするのであれば、教授のことも女生徒のことも、性別を記号として捉えるのではなく人間として描くのが妥当じゃないのか。

 

この作品は、「女性たちに向けて」作られたらしいけれど、最後まで「女生徒」はいち人間ではなく「西さんの思う女」という記号であり続けたな、と思う。

 

 

フェミニストって、そういうことじゃないじゃん、と思う。

エマ・ワトソンがフェミニズムについて国連スピーチで語る - ログミー

 

中高生鑑賞事業向けの冊子の演出ノートから引用すると

「女たちは、ただ女というだけで、軽んじられる。(中略)男の自分がやっと、やっと気づき始めたのはここ数年だ。」

って書いてるけど、まだフェミニズムを意識し始めてから間もないから理解が浅くても仕方ない、これから理解を深めていけば良いというのだったら、少なくとも、SPACという県立の舞台で「女性に向けて」を掲げて上演するには早すぎたと思う。

 

コトリ会議『しずかミラクル』

コトリ会議「しずかミラクル」を観てきました。こまばアゴラ劇場にて。

 

コトリ会議を観るのは今回が初めてで、制作・出演の若旦那家康さんから宣伝して頂いたのをきっかけに観劇。

若旦那さんには2016年に静岡のストレンジシードでスタッフをした際にお世話になったのがはじめましてなのですが、拠点も異なり、そう頻繁にお会いする訳ではないのにその後も覚えていて頂けて、こうして公演のお知らせをしてもらえるのは有難いです。

 

ここからは作品の感想。

 

繊細で優しい、っていうのがベースにあって、その上であえてチープで単純な表現があって、そのバランスが面白かったです。

良い意味で連続して肩透かしをくらう、他の劇団で見た事がないような飄々とした作風でした。

 

ちなみに、舞台美術が能舞台のようだと一部から言われていたようですが、大学時代に能楽師のゼミにいた身としては、今回の舞台は別に能舞台っぽくはなかったと思います。

左右逆ではあるものの奥の廊下が橋掛りのようでは?という印象を受けた人がいる、という事実は否定しませんが、演出家側にその意図はなかったようだし、あの世とこの世の境界という側面からしても、廊下の使い方に一貫性は感じられなかったので、能舞台っぽいと言ってしまうのはただの見た目の話に留まっているかなと思います。

 

美術面だけじゃなくて演出の面から言っても、静かな舞台ではあったけど、お能の「削ぎ落とした表現の美」とは異質で、ピーターブルックを観た時に感じたシンプルさに似てるかなという感じ。

 

設定としては藤子・F・不二雄SF短編集とか星新一ショートショートを思い返すような部分もあり、そういう不条理で毒気のある感じがもう少し濃くても面白かったかとは思うのだけど、逆に、この状況設定にも関わらずここまで毒気のないピュアな方向性に持っていけるのも珍しくて貴重だなと。

 

SF的要素がある作品なのは事実ですが、「サイエンス・フィクション」ではなくて「少し・不思議な」淡々と、ふわふわと漂うファンタジーな作品でした。

 

キャストでは、牛嶋千佳さんが老女にも少女にも見えて、その曖昧さが素敵でした。若旦那さんの役はチートキャラ。美味しいキャラ。

 

ただ、「お世話になっている人が関わっているからベタ褒めする(良いことしか書かない)」のは真摯に作品に向き合っていることにならないと思うので、辛口なことも書きます。

 

私が捻くれているというか天邪鬼なだけかもしれないけど、「器用に」「綺麗に」さらっと作られ過ぎていた感があって、それが少し物足りなかったです。

物語が今ここで紡がれている、届けられているというより、予定調和的に再生されている感じというか。

 

 

20代前半の私たち若手より経験値もあり、評価もされていて、上手い芝居、である事に間違いはなかったと思うのだけど、こなれているその感じがなんかいやで、いやって言葉はちょっとキツい言葉かもしれないけど、もっと手触りが欲しかった。

(「手触り」という単語も抽象的な感覚ですが、例えば鳥公園の西尾佳織さんの作品は手触りのある顕著な例だと思います。作品のテイストも作家性も違うので「コトリ会議もよその◯◯という劇団みたいになってほしい/寄せてほしい」とは全く思ってないですし、作・演出の山本さんならではの作家性を大事にしてほしいっていうのがもちろん大前提ですが、単語のイメージとして。)

 

 

コトリ会議の他の作品を観てない立場で言うのは失礼かもしれないけど、きっと本領発揮ではないでしょ?と思ってしまいました。

 

別に、10代のような「テクニックがなくても全力投球してるキラキラ感」を求めてるわけではないです。毎作品、毎公演に全力投球するのではなくて、千秋楽までのエネルギーを計算してコントロールするのも仕事かもしれない。熱量だけがあればいいってもんじゃないし、テクニックがあるのは良いことだし。

 

それでも、大人には大人の「本領発揮」があるはずで、せっかく関西から東京まで来てくれているのだからこそ傑作を届けてくれよ、って、こっちの期待値が勝手に上がってしまっているのを差し引いても、コトリ会議が持つポテンシャルを最大限に生かしているようには見えなかった。

それはこの作品が静かな作品だから表現もおさえめ、という意味ではなく。器用だからそれっぽく綺麗に完成させられてるけど、まだまだ深みに潜れるはずなのに浅いところで留まってる感じ。役者さんよりはむしろ演出の山本さんによる部分かなと感じたのだけど。

これが全力だというなら、本当に失礼だけど、同じ年齢になる頃まで芝居を続けていれば私でもこのくらいのクオリティ追い付けてしまうなあ、、、と思った。

 

勿論、淡々と進む、ズレて噛み合わない、わざとらしくチープで独特な曖昧な世界は魅力的ではあったけど。

 

 

設定も作風も視点も描きたいものも異なるとはいえ、星(地球)の終わりを描く演劇かつ、消えゆくときに手を繋ぐシーンでラスト、という意味では、ままごと「わが星」の描写には到底かなわないと思ったし、sons wo:「シティ」シリーズを観た時ほどには終末感というか滅びゆく文明や人類に想いを馳せることも出来ず。

 

(さっき鳥公園の名前を出した時にも書いたけど、その劇団のようになってほしいとは全く思ってないです。ただ、題材から想起する別の作品と比較して吸引力を感じられなかったという話。)

 

創作に関わった方々を貶して傷つけたいわけではありません。

 

でもたしかに、煽ってます。喧嘩売ってます。ごめんなさい。

 

私の言うことなんか、このクソガキって思って、大人の、追い付けないくらいかっこいい背中を見せて欲しい。下の世代が「先にやられてしまった!」って悔しがるような作品を見せて欲しい。

コトリ会議には、丁寧に描く力は間違いなくあるはずだからこそ。夢の中を揺蕩うような、詩情のある不思議な旅を、もっと強度を持って実現させてほしい。

そしてまた足を運びたいと思わせてほしいなと思ってます。

青春、ってなんで青なんだろう、って思って調べたら五行思想に行き着く。

 

そして「青春」しか知らなかったけど

 

青春

朱夏

白秋

玄冬

 

と、各季節に色がついていること、ライフステージにもこれらを当てはめられることを知る。

「大人の青春」とかいう表現もたまに聞くけど、その年齢ならではの良さを打ち出すなら、他の季節の言葉だってもっと認知されて積極的に使われても良いのにね。

 

 

なんとなく、日本で「青春」という言葉を使われるのは学生時代に対してだというイメージが強かったせいで「じゃあ今の私の年齢だと夏?」と思ったけれど、朱夏は大体30代からのようで。

 

20代前半なんてまだまだ青い年齢で春まっさかりの模様。

 

芽吹きの季節。

まだまだこれから、いくらでも、花が咲いていく季節。

岸田國士戯曲賞の受賞者発表とかフィギュアスケート男子SPとか、誰がどんな結果を残すんだろう、ということが気になる日だった。

 

結果の価値と、過程の価値と。

 

 

わたしは生きてる中でどれだけの景色が見られるだろうか。どれだけの景色を、自分の中で完結させずに、他者に見せることができるだろうか。

 

とか。