『郷愁の丘ロマントピア』

こまばアゴラ劇場で、ホエイ『郷愁の丘 ロマントピア』を観てきた。

 

これから綴る文章は、勿論この作品を観たからこそ書くものではあるのだけど、基本的には作品自体の話では無く、そこから想いを馳せた、私自身が昔住んでいた場所の話だ。

 

『郷愁の丘ロマントピア』は夕張を題材にした作品だった。

 

私は夕張に住んでいたことは無いし、先祖の中にも炭鉱で働いていた人はいないけれど、私が住んでいた「美流渡」というところも、そして幼馴染が住んでいたすぐ近くの「万字」も、北海道の空知にある、夕張のお隣の、(お隣というか山の向こう側とこっち側みたいな感じの)元は炭鉱で栄えたところだった。

 

現在は吸収合併で岩見沢市の一部になっているものの、私が住んでいた当時はまだ栗沢町だったのだけど、当時から栗沢町の本町(役場とかがある中心地)からは離れた飛び地だったので、一般的に栗沢と認識される場所とは別で形成された集落だ。

 

美流渡炭鉱 - Wikipedia

 

万字炭鉱 - Wikipedia

 

夕張市のように"市町村単位での"限界は迎えてはいないけれど、集落として、で言えば限界集落で間違いない。

 

私が小学校に入学した2001年の時点で全校児童は30人ほどで、同級生は私を含めて5人で、授業は学年合同の複式学級だった。

運動会は保育園、小学校、中学校合同だった。

数年前には全校児童が10人ほどまで減ったと聞いた。

 

 

1995年生まれで、閉山したあとの姿しか知らない若者である私は、今回の作品で描かれていた人々ほどの「当事者」では無い。

しかも、かつて美流渡に住んでいたのは本当だけど、祖父母の代からそこに家があったわけじゃなくて、父がそこで仕事をすることになって引っ越してきた、みたいな感じだから、昔からそこに住んでいた人達から見ればうちの家族はよそ者だったかもしれない。

でも私自身のアイデンティティを形成する上では、4歳からそこに住んで保育園にも小学校にも通ったんだから、ふるさとのひとつであるのは間違いない。

 

 

だから、東京でこの演劇を観た人の中では比較的、この物語は自分にとって地続きの物語だ、と言える立場にあると思う。

 

 

私が住んでいた地域の炭鉱は今回の作品で描かれていた大夕張の三菱のものではなくて北炭のものだったらしいけれど、それでも、全くの無関係なものではない。

 

 

住んでいた当時は幼かったし、炭鉱について詳しい歴史を知っているわけでもなかった。
夕張についてだって、「バリバリ♪夕張♪」のCMで地元民にお馴染みの遊園地、石炭の歴史村とか、メロンアイスとか、そんな印象だ。なんなら大人になった今だって、かつてそこであった出来事を深くは知らない。今作品を作るにあたり山田さんが丁寧にリサーチしたであろう知識量にはきっと遠く及ばない。

 

けど、ここは昔炭鉱で栄えてたんだよ、って聞いたこととか、万字の炭鉱跡地は森林公園になっていて、小学生の頃ズリ山登山に行った記憶とか、炭鉱で栄えたまちのその後、に関する記憶なら、自分のものとして持っているのだ。
(そもそも、東京に、ズリ山って単語を知ってる同世代がどのくらいいるのだろう)

 

この作品を観る前にこないだブログで書いたことも全部この地域での記憶だ。

 

http://peche-m.hatenablog.com/entry/2018/01/10/235957 

 

 

だから、今回の作品の中で積み重ねられた思いや、闘いや、哀しみはかなりリアルなものとして私の身に降りかかってきて泣かずにはいられなかったし、炭鉱で死んだ人々にもダムに沈んだまちにも弔いを捧げた。

 

でも、消えなかった集落や生きている人々は、まだ、2018年の今も、そこにいるのだ。夕張は財政破綻したけど、まだ、そこに住んでいる人がいる。私の高校の同級生にも夕張の子がいた。

 

限界集落は若者がどんどん減ってゆるやかに消えつつあるけど、「今」や「未来」はまだ死んでいなくて、だから、この話はただの悲劇では無いし、哀しかった場所、寂しい場所としてだけでしか美流渡や夕張を語れないなんてことは絶対にないし、わたしは、あのまちが好きだ。

 

好きなだけではそのまちの未来を救えなくて、かくいう私も今は東京に住んでいて、その土地の過疎化を防ぐための行動など何一つしていないし、なにも還元できていない無責任な立場だけど、それでも。