SPAC『授業』

これは煽りでは無く真面目な話なのだけど、この作品を面白いと思った人たちは、どこの場面の何を見てそう判断したのか知りたい。

 

“鬼才”が仕掛ける衝撃の連続 SPAC『授業』公演&アーティストトーク レポート | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス

のように好意的に捉えている記事や、褒めてるツイートも読んだし、面白いと思った人の感覚を否定するつもりはない。

何かを感じたり受け取ったなら、それはそれで良いと思う。

 

ただ、あくまでいち観客としての感想だけど、わたしは正直「西悟志という演出家の描く『授業』」は面白いと思えなかったから、どういう点で他の人が面白いと感じたのかわからない。

 

演出家の西さんは東大卒で、利賀の演出家コンクールでも優秀演出家賞を受賞しており、2019年に新国立劇場で上演される演目の演出家としても選出されているらしい。

肩書きや活動実績からして、評価されてきた人、なのは間違いないし、才能を見出したからこそSPAC芸術監督の宮城さんも西さんを「鬼才」と評して今回の演出家に選び、ゴーサインを出したんだろうし、周囲からも、過去の作品は面白かったと聞いた。

 

かたや私は、演劇の経験年数もまだ短い、受賞歴も無いような23歳の小娘だけど、でも(舞台上で男⇄女、あるいは年長者⇄若者といった構造が描かれていたからこそ)ここで肩書きに負けて「これまで評価されてきた人の作品を面白いと思えないのは自分が間違ってるのかな」と感覚に蓋をするのは嫌だなと思ったので、書く。過去作品はたしかに面白かったのかもしれないけど、少なくとも今回の作品は、私にとって面白くなかった。

 

(本題から少しずれるけど、

私自身「面白くない」と言い切るまでに躊躇いがあった事を思うと、これまでほぼ演劇に触れてこなかった学生たちなんて、私以上に、自分の感覚を信じることが難しそうだなと思う。

中高生鑑賞事業で『授業』を観て「演劇ってこういうものなんだ」とか「自分にはよくわからないけど周囲の大人たちに評価されてるみたいだからすごいのかもしれない」とか思ってしまう子がいそうで怖い。

学校で書かされる感想文って、劇評を求められているというより、面白かったです、的な、良かったところだけを書くことが多い気がするので、なんだかなあと思う。これは私の通ってた学校がそうだっただけで、批判的な事を書いても大丈夫な学校もあるかもしれないけど。)

 

面白くないものを面白かったって持て囃すのは不健全で誰の為にもならないし、面白くないですっていうことをちゃんと発信していくことは大事だと思う。営業妨害したい訳でも風評被害に遭わせたいわけでもなく、これからの演劇の未来のために。

 

とはいえ、今回の公演を通して

 

「SPACは面白くない」

「演劇は面白くない」

「イヨネスコって面白くない」

「『授業』って面白くない」

 

と捉えられてしまうのもつらい。

 

だって、SPACの俳優とマリー役のスタッフさんは上手かった。イヨネスコの戯曲は面白かった。

 

 

問題はあくまで演出の西悟志さんがやろうとしている事というか、今回この上演をするにあたって戯曲をどう扱うか、という面。姿勢というか視点というか。

 

もし仮にSPAC関係者の人たちが、劇団として、劇場としてこの作品を本気で素晴らしいと思ってるなら今後上演される演目の選定に不安を覚えるくらいには、チケット代が勿体無いなと思った。

(意に沿わないものだとしても観客には不平不満や内情を漏らさずやり切る、っていうのもプロの仕事のうちかもしれないけど、本音の部分で、全員がこれを肯定しているとは信じたくない)

 

 

不条理劇だから脈絡が無くてよくわからなかった、とか、台詞の意味がわからなくてつまらなかったとかではない。

 

 

むしろ、本来の戯曲には無いストーリー性が付与されてしまった事で、シュールさ、滑稽さ、空虚さみたいなものが失われていて笑えなかった。西さんのオリジナル部分が蛇足でしかないというか、普通に不条理劇として失敗だと思う。たしかにラストに至るまでの台詞は非論理的なものだったにせよ、それは、元の戯曲がそうだからで、その状況に対して新しい展開や主張を付け足した時点でドラマになっちゃってるというか。そしてそのドラマの存在が、私にとって面白くない原因だと思う。

最初に貼ったSPICEの記事の中でも「不条理で終わらせない」って書かれているけれど、好意的に評してるレポートにおいてもこの上演は不条理で終わっていないと判断されているわけで。

誰もしてこなかったことを世界に類を見ない新しい試みだとか評価するのは簡単だけど、そうする必要が無いから誰もやってこなかったんじゃないの、と思ってしまうくらい、イヨネスコの『授業』にはいらない要素だったと思う。

記事の中ではそれが「勇気ある一歩」として評価されているけれど、私としては、それは、本当に「女生徒」のポジションに重ねられているであろう人々に寄り添えているならば、の話だと思う。

 

そもそも最初から『授業』を「不条理で終わらせない」という目的が先にあったとして、戯曲はあくまでその結論に至るための道具に過ぎないとするなら、「イヨネスコに忠実に」とか言うなよって思うし、

 

さっきも書いたように「女生徒」に象徴される女性たち(およびそういった立場におかれる人々。性別問わず)に寄り添えているならまだ評価できる試みだったにせよ、演出家本人いわく「女性たちに向けて作った」らしいそのシーンが浅いというか結局女性をナメてるな〜っていうのが透けてるのが一番どうかと思う。

あの最後の反撃(あるいは最後の椅子のシーン)で怒りや悲しみを表現したつもりかもしれないけど、なんにも悪気や自覚は無いのかもしれないけど、でも、だからだめなんだと思う。仮に「女性たちに向けて」っていうのがあのラストシーンの事じゃないとするなら、それはそれで、どこの事を言ってるのか疑問だし。

 

※ イヨネスコ「授業」を“女性たち”向けに、西悟志「世界的にも例を見ない授業に」 - ステージナタリー

 

 

Twitterの感想ツイートで、抑圧からの解放、とか、爽快感、救われるって言葉を使ってる人もいたけど、抑圧された事が無い人かあるいはポジティブな人なのかなと思う。あれが爽やかなハッピーエンドとはどうしても思えない。

(その感想を抱いた人を馬鹿にしてるとかではなく、幸せな/恵まれた人生を送ってきた人が、当事者としてではなく第三者の視点から他人事として見るとそう見えるのかもしれない、という話。)

 

西さんと共同演出の菊川さんにも(振付以外の部分でどの程度まで演出に関わったのかはわからないけれど)本当にこの演出で解放されますか?って聞きたい。責めてるんじゃなくて、喧嘩売ってるんじゃなくて、聞きたい。

 

私もフェミニズムを専門的に学んだ訳では無いけど、少なくとも絶対に「やられたらやり返す」ことでは無いし、そもそも、殺す⇆殺される、っていう「明らかに犯罪である」ことに対しての抵抗を描くことで女性の権利を表現してるつもりなら甘い。

まあ別に表面上の「殺す」という行為が重要なのではなくて、殺すに至るまでの教授の挙動を通して権力構造とかレイプだとか痴漢も表現していたのかもしれないけど、そして、それに至ってしまうような、社会の中にある女性蔑視を描きたかったのかもしれないけど。

殺すっていうのは元の戯曲にもある要素だから、「明らかに犯罪である行為」とか関係無く、必要なシーンだったにせよ。

そこに対して問題提起しつつオリジナルの回答を示すという選択をするのであれば、教授のことも女生徒のことも、性別を記号として捉えるのではなく人間として描くのが妥当じゃないのか。

 

この作品は、「女性たちに向けて」作られたらしいけれど、最後まで「女生徒」はいち人間ではなく「西さんの思う女」という記号であり続けたな、と思う。

 

 

フェミニストって、そういうことじゃないじゃん、と思う。

エマ・ワトソンがフェミニズムについて国連スピーチで語る - ログミー

 

中高生鑑賞事業向けの冊子の演出ノートから引用すると

「女たちは、ただ女というだけで、軽んじられる。(中略)男の自分がやっと、やっと気づき始めたのはここ数年だ。」

って書いてるけど、まだフェミニズムを意識し始めてから間もないから理解が浅くても仕方ない、これから理解を深めていけば良いというのだったら、少なくとも、SPACという県立の舞台で「女性に向けて」を掲げて上演するには早すぎたと思う。